ひきぶねとうせいしょ
イギリス連邦 曳船統制所  tug control
    
2008年現在の地図
大和建造ドック  大和ミュージアム
1952年ころ  
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Mr.マッカーシー (事務所前にて)
 統制所の全責任者。 1954年ごろ帰国。 帰国後も1年間文通した。 
    
 オーストラリア海軍少尉のMr.マッカーシーが責任者。 日曜日以外、朝、統制所から司令部(現在の大和ミュージアムのあるあたり)へ迎えに専用の舟で行った。 彼は夕方まで事務所で本部からくる命令を我々に指示した。 我々3名は分担して指示された命令業務を行った。 昼間は常時2名で勤務し、1名は夜間、事務所に出勤し、本部からの電話による命令を受けた。 仕事は入出港する船舶を援助することが大部分だった。 命令を受けるとすぐ、運航管理者(ディスパッチャーとよんでいた)に伝え、待機している当直の舟、通常は曳船2隻、網取り用2隻で任務にあたった。 入出港する船舶の時間は正確であり、ミスすることは許されない厳しいものであった。 昼間、司令官が勤務しているときは、面前で口頭での指示だからミスを犯す心配はなく、気楽だったが、夜間、電話での命令には神経を使った。 当時の日本は相手側からみると、敗戦国であり、我々への対応はひどいもので、電話で指示してくる当直士官は見知らぬ人たちで、こちらから命令の内容を問い返す行為はできなかった。 命令は文書を棒読みしてくる場合がほとんどで、内容を間違えると大変なことになる。 物資を外洋から輸送する船の多くは、瀬戸内海の複雑な地形を恐れ、そのため急ぎ愛媛県沖までパイロットを送り、乗船させる仕事を指示されることもあった。 その船が到着する場所と時間をこちらがミスしたら、入港船を漂流させることになり、大変なことになる。 幸運にも、ミスは一度もなかった。 しかし、電話の呼び出し音でギョッとすることが仕事を離れても長い間続いた。 夜間、当直の日は調理された食品は売られていない時代だから、材料を持って行き、電熱器で調理した。 電熱器は当時貴重品で、商品として売られ始めたのは朝鮮戦争が終わった後だった。 調理されたおかずも戦後売られ始めたが、ご飯類はずっと後のこと。
 
 桟橋は内部が空間になっていて、そこでは機械、鍛冶、大工しごと等に従事する人たち、30名ほどが昼間のみ勤務していた。 2、3日に一度夜間当直がある乗組員はうらやましく思ったものだ。 他に事務所には看護婦、裁縫婦、事務員が昼間のみ勤務していた。
統制所事務所前にて(一番右)
  
 仕事として一番印象深かったのは英海軍の2万トン級、航空母艦「ユニコーン」を桟橋に接岸させたこと。 母艦は秘密性の高い艦艇で外国人は水先案内人でも乗船できなかったが、Mr.マッカーシーと一緒に業務を行うとの理由で乗艦できた。 母艦が呉港沖に入ったとき、ボートで横付けし、乗艦するために降ろされた縄梯子を登り、艦内を通り、艦橋へ。 途中、飛行甲板直下にある格納甲板など、生涯見ることができない施設を興味深く見た。 艦橋はさすがに見晴らしがきくようにできていて、真下にある操舵室に各操作を命令するのに都合のよい位置であった。 艦長の指示どおり、仲間の曳船に母艦の拡声器で伝達。 艦内にも声が流れ、少々恥ずかしかったが。 接岸は母艦の乗組員がすればいいように思うかもわからないが、何艘かの曳船ですこしずつバランスをとりながら押さないと桟橋に激突してしまう。 ユニコーンは何度か呉に寄港した。 私が見た航空母艦は「ユニコーン」の他、「オーシャン」がある。 ユニコーンより少し小さかったように思う。

 私が勤務した期間は7年位だったが、充実した年月だった。 死に至る危険が長期間続き、死んでもしかたないというある種のあきらめを自分に認めさせるという時を、太平洋戦争時よりも多く経験したと思う。 この仕事に採用されたのは英語ができたことや英文タイプライターが打てたことではないかと思っている。 将来の展望を頭に入れ、特殊な技術を身につける努力を怠らないことが大事であると思う。