運貨船
年不明 夏か?      

船の旗はイギリス海軍の旗か?
上と下の写真は別の航海(前列右から2番目)
釜山行きの兵員を乗せて行ったこともある(前列一番右)
   
 旧海軍所属の300トン程度の船。 国連軍を援助するため、呉、門司、釜山、仁川、鎮南浦(現 南浦)へ、平均1ヶ月2回程度、物資や武器弾薬を搬送。  大型船舶では荷物の積み降ろしに時間が多くかかり、ひっ迫した戦線の状況には適合しなかったので、この船を使用した。 他に日本の木造のハシケ(小船)数隻が呉、釜山間のみの運送任務にあたっていた。 仁川、鎮南浦へは危険なので日本船は使わなかった。 2年間で30回位往復したと思う。(主に釜山へ行った。鎮南浦へは1回のみ)

[朝鮮半島西岸]
 制空権、制海権ともに共産側にあり、昼間はソ連のミグ戦闘機に襲撃されるおそれがあったので、海岸に沿って航海しなければならなかった。 雨降りのときは、そのおそれがなく、安全。 しかし、海面は共産軍が機雷を敷設していたので危険。 海面下2m程度の所に敷設されていることが多く、船上からは発見しにくい。 越前クラゲそっくりで間違えて銃撃したこともある。 

[仁川港]
 北緯38度付近。 世界一干満の差のある港。 干上がると望遠鏡でも確認できないような広い砂浜になる。 大型船舶は沖合いに避難、小型船はドッグ入り。 ある夕方、ドッグに入っているとき、ミグ戦闘機の機銃掃射を受けた。 共産兵士が確保している陸には逃げられず、船底にうずくまり、怖い思いをしたことがあった。 

[鎮南浦港]
 支援物資を運ぶために河を上がっていたとき、アメリカ艦艇が一団となって下っていた。 我々はその艦艇に砲撃されないよう、ライトの光で信号を出し、了解を得たので航行を続行したが、港口に着くやいなや、陸上から一斉射撃を受けた。 港は共産軍の制圧区域になっていることがわかり、全速力で引き返す。 途中遭遇したアメリカの艦艇は国連軍全員を収容し、退避していたのだ。 その最後尾の艦艇は河口を去る際、触雷機雷を敷設し、共産軍の艦艇が通過するのを阻止していた。 我々は釜山港に帰り、そのことを知った。 我々が信号を送った際、なぜそのことを知らせてくれなかったのか。 アメリカはオーストラリアなどの小国は眼中にない、格下の国に過ぎないという意識を持っているからとMr.マッカーシーは言っていた。 幸いにも音に反応する機雷でなかったので助かった。 (1952年のことと思うが、記憶が定かでない。)

[釜山港]
 1ヶ月に2回程度、呉から物資を輸送した。 休戦になる直前には、国連軍は敗退し、陸上では釜山の20Km近くまで追い詰められて、砲声が聞こえる戦況だった。 日本人の上陸は許可しなかったが、私だけには証明書をくれ、市内へ行った。 市内の大通りには、30m間隔で女性兵士が立っており、若者が通行していると呼び止めて尋問し、兵役に従事させた。 私も当然呼び止められ、うんざりし、行きたくなくなり、2回でやめた。 そのような状況であっても丘の上の高級住宅地ではピアノを弾く音が聞こえた。 高級官僚か軍人が住んでいたのだろう。 釜山は呉市のように小高い丘に囲まれた市。 丘といっても当時は畑作地。 北方から逃げてきた避難民が、お金のある者はテント小屋をつくり、住居としていた。 大部分の人は野宿だった。 港には兵役に従事させられた日本から引き揚げてきた若者が多かった。 戦勝国になったという韓国政府の報道で、日本で大きな商売をしている人たち以外の多くは喜び勇んで帰国したが、当てがはずれ、おまけに兵役の義務。 港ではそのような若い兵士が多くおり、日本に密航させてくれるよう頼む兵士(日本語ができる)が多くいた。 中には依頼する前に品物を差し出す兵士もいた。 たとえ自分は密航できたとしても、残った家族に迷惑をかけるのではと問うと、戦線に行くと死亡する確率が高く、生き延びることが今唯一の親孝行だと答えた。 韓国兵士は隊列の一番前か後ろに配置され、友達の多くが犠牲になったという。 もちろん依頼に応じたことはない。 司令官にその理由を言っても承認するはずはないから。 

[対馬海峡]
 海峡を北上している対馬海流と強い北風とが相反している海峡なので、冬期は危険な水域。 波が高いとき、「白馬」がたつと言っていた。 海面には三角波が発生し、万一その波上に乗れば、船のスクリューは空転するのでエンジンは一瞬にして壊れる。 このような荒波の中で船舶の進行が止まると横倒しになり、沈没する。 このようなときは波に乗らないで、対馬の厳原港に避難したものだ。 冬期の三角波の高さは10m位。 波と波の間隔は30m。 3000トン級の艦艇なら、波の間に入ると見えなくなり、マスト、煙突のみが波間に見えた。

[佐世保港]
 港口は狭く、幅は2〜300m位の天然の良港。 港の両側には岬があり、両方の岬を深さ10mほどの鉄条網を海面下に設置し、共産軍の船や潜水艦の進入を防止していた。 船舶が出入りする際は岬の司令室に信号を送り、網を海底に沈めてもらう必要があった。 小舟は南側の岬の網の張っていない、狭い水路で出入りをしていた。 佐世保港には2回入ったことがある。 その地の人はこちらが話すことは理解できたが、逆に彼らが話す内容はちんぷんかんぷん。 沖縄から来た人たちだったのかもしれない。

[その他]
 朝鮮半島への航海は普通1週間、長いときは1ヶ月。 時には木の葉のように前後左右に大きく揺れる運貨船で、当番兵と二人で、朝、10時、昼、3時、夕の4人分の食事の準備(船員の分は船員どうしでする)をしたことも強く印象に残っている。 桃の缶詰とベーコンは最後まで抵抗なく食べたが、他の缶詰類は日本人の口にあうようなものではなかった。 また、パンが嫌いになったのは1ヶ月パン食をしたトラウマかもしれない。





 
 朝鮮戦争 年表
Mr.マッカーシーも乗船していた。 船員十数名は船首に寝た。